西陣だより

Rui Coutureを宜しくお願いします。
Rui は、生地への愛着から生まれた会社です。クラシック音楽・オペラ大ファンの私が、高級な質感のある華やかなデザインの生地で、自分の体形にあったお洋服を着てお出かけしたい!という思いから、生地を探しパターンを引き、自分でお洋服を縫い上げるようになってからはや十数年。様々な生地に出会いながら、京都では西陣織にたどり着きました。 Rui CoutureはRui Arts and Craftsの出発点でもあります。これから(少し先にはなりますが)西陣織をつかったアクセサリーやカバンなどを販売すべく、Rui Arts and CraftsのHPと一緒にしました。引き続きお洋服も販売していきますので、宜しくお願いします。
Rui Coutureを宜しくお願いします。
Rui は、生地への愛着から生まれた会社です。クラシック音楽・オペラ大ファンの私が、高級な質感のある華やかなデザインの生地で、自分の体形にあったお洋服を着てお出かけしたい!という思いから、生地を探しパターンを引き、自分でお洋服を縫い上げるようになってからはや十数年。様々な生地に出会いながら、京都では西陣織にたどり着きました。 Rui CoutureはRui Arts and Craftsの出発点でもあります。これから(少し先にはなりますが)西陣織をつかったアクセサリーやカバンなどを販売すべく、Rui Arts and CraftsのHPと一緒にしました。引き続きお洋服も販売していきますので、宜しくお願いします。

西陣織の歴史(5)江戸時代の西陣織
江戸時代に入ると、社会の安定と繁栄を背景に西陣織の需要が増加しました。特に裕福な町人層が西陣織の衣服を身に纏うようになり、豪華なファッション文化が発展します。元禄時代には、経済的余裕から消費が盛んとなり、国内養蚕業の発展によって手に届きやすい商品も生産され、西陣織はさらに繁栄しました。当時の西陣地域には高級織物職人だけでなく、ちりめんや絣の職人も集まり、日本の絹産業の中心地として活況を呈しました。 しかし、江戸時代中期には、飢饉や自然災害による社会の不安定化に加え、中国からの輸入生糸需要の増大や貿易不均衡が進行。加えて、商品経済の発展が重農主義を掲げる幕府の政策に反するとして、奢侈禁止令が度重ねて発布されました。西陣地域も贅沢禁止令や度重なる大火、飢饉、生糸価格の高騰など、多くの困難に見舞われます。 それにもかかわらず、人々のファッションへの欲求は容易には抑えられず、表からは見えない衣服の裏地に鮮やかな色や豪華な柄、生地で装飾する「粋」と呼ばれる新しい美意識が江戸の人々の間に生まれました。
西陣織の歴史(5)江戸時代の西陣織
江戸時代に入ると、社会の安定と繁栄を背景に西陣織の需要が増加しました。特に裕福な町人層が西陣織の衣服を身に纏うようになり、豪華なファッション文化が発展します。元禄時代には、経済的余裕から消費が盛んとなり、国内養蚕業の発展によって手に届きやすい商品も生産され、西陣織はさらに繁栄しました。当時の西陣地域には高級織物職人だけでなく、ちりめんや絣の職人も集まり、日本の絹産業の中心地として活況を呈しました。 しかし、江戸時代中期には、飢饉や自然災害による社会の不安定化に加え、中国からの輸入生糸需要の増大や貿易不均衡が進行。加えて、商品経済の発展が重農主義を掲げる幕府の政策に反するとして、奢侈禁止令が度重ねて発布されました。西陣地域も贅沢禁止令や度重なる大火、飢饉、生糸価格の高騰など、多くの困難に見舞われます。 それにもかかわらず、人々のファッションへの欲求は容易には抑えられず、表からは見えない衣服の裏地に鮮やかな色や豪華な柄、生地で装飾する「粋」と呼ばれる新しい美意識が江戸の人々の間に生まれました。

西陣織の歴史(4) 名前の由来
西陣織の歴史における重要な転機の一つは、「応仁の乱」(1467-1477) です。この内乱は京都で戦われ、市内の広範囲にわたって壊滅的な影響を及ぼしました。 応仁の乱は、室町幕府将軍家や大名家、そしてその家臣たちが非常に複雑な権力争いから二つの陣営に分かれましたが、それぞれの本陣は以下の地図のように、実際には京都北部で徒歩約10分ほどの距離にありました。その近さは、現代の感覚からですと少し驚きです。 約10年の戦争の間、西陣織の織り手たちは商業都市の堺に逃れ、商売を続けました。戦争が終わると、彼らは再び京都に戻り、かつての西軍の陣地に定住し、後にこの地域が「西陣」と呼ばれるようになったため、そこで生産された織物はそれにちなんで「西陣織」と名付けられるようになりました。これが西陣織という名前の起源であり、その名は今もなお使われています。 今日、西陣地区を歩くと、山名宗全の住居跡や、応仁の乱の勃発の地、激戦地などの史跡を目にすることができます。また、ある逸話によれば、京都の古い人々は応仁の乱を「先の戦争」と呼ぶことがあるそうです。これは550年前に起こった戦争ですが、京都は第二次世界大戦の被害を免れたためです。私自身はそうした人々に出会ったことはありませんが、このことは何世代にもわたってこの壊滅的な戦争の記憶が強く残っていることを示しています。 室町時代が終わり、日本は混乱の戦国時代へ突入しますが、その後半の天下統一が進む過程において、まれにみる絢爛豪華な桃山文化が花開き、秀吉の保護を得た西陣織は大発展を遂げました。一方で、秀吉などの権力者は、舶来物の絢爛な織物などを好んだようです。
西陣織の歴史(4) 名前の由来
西陣織の歴史における重要な転機の一つは、「応仁の乱」(1467-1477) です。この内乱は京都で戦われ、市内の広範囲にわたって壊滅的な影響を及ぼしました。 応仁の乱は、室町幕府将軍家や大名家、そしてその家臣たちが非常に複雑な権力争いから二つの陣営に分かれましたが、それぞれの本陣は以下の地図のように、実際には京都北部で徒歩約10分ほどの距離にありました。その近さは、現代の感覚からですと少し驚きです。 約10年の戦争の間、西陣織の織り手たちは商業都市の堺に逃れ、商売を続けました。戦争が終わると、彼らは再び京都に戻り、かつての西軍の陣地に定住し、後にこの地域が「西陣」と呼ばれるようになったため、そこで生産された織物はそれにちなんで「西陣織」と名付けられるようになりました。これが西陣織という名前の起源であり、その名は今もなお使われています。 今日、西陣地区を歩くと、山名宗全の住居跡や、応仁の乱の勃発の地、激戦地などの史跡を目にすることができます。また、ある逸話によれば、京都の古い人々は応仁の乱を「先の戦争」と呼ぶことがあるそうです。これは550年前に起こった戦争ですが、京都は第二次世界大戦の被害を免れたためです。私自身はそうした人々に出会ったことはありませんが、このことは何世代にもわたってこの壊滅的な戦争の記憶が強く残っていることを示しています。 室町時代が終わり、日本は混乱の戦国時代へ突入しますが、その後半の天下統一が進む過程において、まれにみる絢爛豪華な桃山文化が花開き、秀吉の保護を得た西陣織は大発展を遂げました。一方で、秀吉などの権力者は、舶来物の絢爛な織物などを好んだようです。
西陣織の歴史(3)武士の時代
奈良時代に確立した律令制に基づく中央集権体制は、平安京でも継続されましたが、その体制も貴族達の政治への無関心などから徐々に崩れていき、武士の台頭に繋がっていきます。 貴族化した平家が源平合戦で敗北し、鎌倉に武士政権が誕生すると、政治権力の移行は、文化の担い手にも変化をもたらしました。平安時代の文化は、貴族的な優雅さや繊細さ、そして華やかさを特徴としていましたが、武士階級はより質素で力強い美学を体現する傾向があります。しかし時が経つにつれて、武士階級は次第に貴族的な要素を取り入れるようになり、政治が安定するにつれて、将軍の生活も洗練されていき、一部の将軍は統治の厳しさから退き、文化的追求に没頭するようになりこともありました。 長らく皇室に仕える絹織物の名手であった西陣織の織工たちは、平安時代後半の頃からすでに機能しなくなったと考えられる織部司から離れ、鎌倉時代に政治の中心が東へ移動した際、西陣織の織工たちは「大舎人(おとねり)町」(現在の猪熊通下長者町附近:地図参照)や「大宮」に集まり、やがてギルドのような組織を形成。互いに競争・協力しながらその後の武士政権下の長きにわたり、精緻な織物を作り続けました。これから江戸時代までを見ていきます。
西陣織の歴史(3)武士の時代
奈良時代に確立した律令制に基づく中央集権体制は、平安京でも継続されましたが、その体制も貴族達の政治への無関心などから徐々に崩れていき、武士の台頭に繋がっていきます。 貴族化した平家が源平合戦で敗北し、鎌倉に武士政権が誕生すると、政治権力の移行は、文化の担い手にも変化をもたらしました。平安時代の文化は、貴族的な優雅さや繊細さ、そして華やかさを特徴としていましたが、武士階級はより質素で力強い美学を体現する傾向があります。しかし時が経つにつれて、武士階級は次第に貴族的な要素を取り入れるようになり、政治が安定するにつれて、将軍の生活も洗練されていき、一部の将軍は統治の厳しさから退き、文化的追求に没頭するようになりこともありました。 長らく皇室に仕える絹織物の名手であった西陣織の織工たちは、平安時代後半の頃からすでに機能しなくなったと考えられる織部司から離れ、鎌倉時代に政治の中心が東へ移動した際、西陣織の織工たちは「大舎人(おとねり)町」(現在の猪熊通下長者町附近:地図参照)や「大宮」に集まり、やがてギルドのような組織を形成。互いに競争・協力しながらその後の武士政権下の長きにわたり、精緻な織物を作り続けました。これから江戸時代までを見ていきます。

西陣織の歴史(2)平安京の西陣織
現代からは想像がつきませんが、絹は古代においてはローマでは同重量の金と取引されていたほど貴重で、交易で富をもたらすものでした。また、貨幣のような役割も果たしていたことから、価値への信頼性が高かったものと考えられます。そのため、絹織物は多くの王朝で朝廷が管理運営することが多く、西陣織の発展も、権力者である皇室が京都に朝廷を置いたことにより始まったといえるでしょう。 平安京では絹織物を統括する「織部司」が大蔵省の中におかれましたが、これが現在の西陣の一角にありました。織部の司やその周辺で皇族や貴族が着る豪華な衣装が織られ、これが西陣織の歴史に直接繋がっていきます。平安時代末期には王朝の弱体化によりすでに織部司は解体され、西陣織の先祖たちは独自で機織りを続けながら、長い歴史を生き延びていくこととなります。 青で囲まれたところが織部司・織部町 現在の堀川通と中立売通の交差点近くになります。 どんな生地が織られたのでしょう?十二単や束帯を皆さんは見たことがあると思います。高位の僧侶の袈裟、貴族の室内や神社仏閣の空間を飾る装飾的な布。西陣織は平安時代の雅を形成する大きな要素の1つだったのです。
西陣織の歴史(2)平安京の西陣織
現代からは想像がつきませんが、絹は古代においてはローマでは同重量の金と取引されていたほど貴重で、交易で富をもたらすものでした。また、貨幣のような役割も果たしていたことから、価値への信頼性が高かったものと考えられます。そのため、絹織物は多くの王朝で朝廷が管理運営することが多く、西陣織の発展も、権力者である皇室が京都に朝廷を置いたことにより始まったといえるでしょう。 平安京では絹織物を統括する「織部司」が大蔵省の中におかれましたが、これが現在の西陣の一角にありました。織部の司やその周辺で皇族や貴族が着る豪華な衣装が織られ、これが西陣織の歴史に直接繋がっていきます。平安時代末期には王朝の弱体化によりすでに織部司は解体され、西陣織の先祖たちは独自で機織りを続けながら、長い歴史を生き延びていくこととなります。 青で囲まれたところが織部司・織部町 現在の堀川通と中立売通の交差点近くになります。 どんな生地が織られたのでしょう?十二単や束帯を皆さんは見たことがあると思います。高位の僧侶の袈裟、貴族の室内や神社仏閣の空間を飾る装飾的な布。西陣織は平安時代の雅を形成する大きな要素の1つだったのです。

西陣織の歴史(1) 始まり
西陣織の歴史は、日本の絹織物の歴史でもあります。魏志倭人伝の記録からは、3世紀ごろの日本ではすでに養蚕・絹織物の制作が行われていたようですが、早ければ紀元前2世紀にはすでに日本に養蚕・絹織物の技術が伝わっていた可能性もあるようです。 京都における絹織物の歴史も5世紀頃まで遡る事ができます。灌漑・養蚕・機織りの技術を日本にもたらした渡来人の秦氏が定住して絹織物を作り始めたのが今の京都は太秦。現在の西陣からは南西へ自転車で30分ぐらいの距離にあり、秦氏由来の広隆寺が有名ですね。 広隆寺から歩いて10分くらいのところにある「蚕ノ社」という神社も秦氏由来の神社で、絹織物に関わる神社であったと言われています。訪れたら、ぜひ大変珍しい三鳥居もご覧下さい。鳥居が3つ組み合わされたような形で、昔は泉がわいていて池の中にあったようです。元糺(糺の森は現在の下鴨神社)とも呼ばれる緑に囲まれた、神秘的な場所です。 1600年も前に始められた産業がいまだに同じ都市で続いているって、世界に他にあるでしょうか?イタリアのムラノのガラスはかなり長いですが、おそらくそれよりはるかに長いです。 観光おすすめ(秦氏や絹織物に関連の深い場所):広隆寺、蚕ノ社、蛇塚古墳、松尾大社
西陣織の歴史(1) 始まり
西陣織の歴史は、日本の絹織物の歴史でもあります。魏志倭人伝の記録からは、3世紀ごろの日本ではすでに養蚕・絹織物の制作が行われていたようですが、早ければ紀元前2世紀にはすでに日本に養蚕・絹織物の技術が伝わっていた可能性もあるようです。 京都における絹織物の歴史も5世紀頃まで遡る事ができます。灌漑・養蚕・機織りの技術を日本にもたらした渡来人の秦氏が定住して絹織物を作り始めたのが今の京都は太秦。現在の西陣からは南西へ自転車で30分ぐらいの距離にあり、秦氏由来の広隆寺が有名ですね。 広隆寺から歩いて10分くらいのところにある「蚕ノ社」という神社も秦氏由来の神社で、絹織物に関わる神社であったと言われています。訪れたら、ぜひ大変珍しい三鳥居もご覧下さい。鳥居が3つ組み合わされたような形で、昔は泉がわいていて池の中にあったようです。元糺(糺の森は現在の下鴨神社)とも呼ばれる緑に囲まれた、神秘的な場所です。 1600年も前に始められた産業がいまだに同じ都市で続いているって、世界に他にあるでしょうか?イタリアのムラノのガラスはかなり長いですが、おそらくそれよりはるかに長いです。 観光おすすめ(秦氏や絹織物に関連の深い場所):広隆寺、蚕ノ社、蛇塚古墳、松尾大社