西陣織の歴史(4) 名前の由来
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西陣織の歴史における重要な転機の一つは、「応仁の乱」(1467-1477) です。この内乱は京都で戦われ、市内の広範囲にわたって壊滅的な影響を及ぼしました。
応仁の乱は、室町幕府将軍家や大名家、そしてその家臣たちが非常に複雑な権力争いから二つの陣営に分かれましたが、それぞれの本陣は以下の地図のように、実際には京都北部で徒歩約10分ほどの距離にありました。その近さは、現代の感覚からですと少し驚きです。
約10年の戦争の間、西陣織の織り手たちは商業都市の堺に逃れ、商売を続けました。戦争が終わると、彼らは再び京都に戻り、かつての西軍の陣地に定住し、後にこの地域が「西陣」と呼ばれるようになったため、そこで生産された織物はそれにちなんで「西陣織」と名付けられるようになりました。これが西陣織という名前の起源であり、その名は今もなお使われています。
今日、西陣地区を歩くと、山名宗全の住居跡や、応仁の乱の勃発の地、激戦地などの史跡を目にすることができます。また、ある逸話によれば、京都の古い人々は応仁の乱を「先の戦争」と呼ぶことがあるそうです。これは550年前に起こった戦争ですが、京都は第二次世界大戦の被害を免れたためです。私自身はそうした人々に出会ったことはありませんが、このことは何世代にもわたってこの壊滅的な戦争の記憶が強く残っていることを示しています。
室町時代が終わり、日本は混乱の戦国時代へ突入しますが、その後半の天下統一が進む過程において、まれにみる絢爛豪華な桃山文化が花開き、秀吉の保護を得た西陣織は大発展を遂げました。一方で、秀吉などの権力者は、舶来物の絢爛な織物などを好んだようです。