日本のラグジュアリーについて考える(2): ラグジュアリーの再定義

日本のラグジュアリーについて考える(2): ラグジュアリーの再定義


近年、伝統工芸がラグジュアリーのコンテクストで言及されることが増えているように思います。例えば、Japanʼs Authentic Luxuryを一言でまとめたJAXURYという委員会は、クラフトマンシップ、感性、信頼など10の視点から、毎年企業を対象に賞を授与しているようで、西陣織からはHOSOOさんが受賞されています。西陣織のような伝統工芸品は質の高い材料を使い、専門技術を会得した人が時間をかけて作り上げるので、質はもとより値段も高いものとなります。ですので、弊社でもはじめはあまり深く考えずに「ラグジュアリー」という言葉を使っていました。しかし、伝統工芸はラグジュアリーなのでしょうか?ふと考えると、一般に「ラグジュアリー」が連想させる西洋の高級品とはやはり何か違うようにも感じます。これから販路のグローバル展開を考えれば、伝統工芸をラグジュアリーとしてとらえるのも1つの方法かと思いますが、私は違和感を覚えました

現代のグローバル市場におけるラグジュアリーの概念は主に欧米の歴史・文化に根付いており、自己の表現と密接にかかわっているのではないかと思います。「ラグジュアリー」は素材・技術・デザインの秀逸性のみにあるのではなく、その消費は誇示、象徴性の消費による自己表現でもあり、そのために作られたものでもあるでしょう。そしてそれは19世紀の帝国主義時代の文化的な力関係によって、欧米のみではなくアジアででも積極的にアイコンとして消費されグローバル化しましたが、その逆の傾向はあまり見られないのではないかとも思います。

伝統工芸にも、そのようなアイコン性のものもあるでしょう。ただ、自己表現の方法が日本と欧米では異なり、その表現的な違いは、現在のグローバル市場において、エモーショナルな面での訴えかけのようなものに違いをもたらしているようにも思います。

そう考えたとき、現代のグローバル市場で、伝統工芸品をラグジュアリーとして同じ土俵に乗せてしまうことは、ラグジュアリーの意味合いが変わるか、よほどの手腕がない限り難しのではないか、と思います。ですので、Jaxuryがラグジュアリーを「そぎ落とされた贅沢」として再定義する試みは、ある意味でグローバルなラグジュアリーの理解に日本の視点からものを申す、という非常に心強い試みと思います。ただ、私たちははそぎ落とされた美があまりに日本文化と強調されることには若干居心地の悪さを覚えますので、そこに弊社の進むべき道もあるのかなと思いました。そもそも、そこまで日本文化にこだわる必要もあるのでしょうか。

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