日本のラグジュアリーについて考える(5):人間であることの豊かさ

日本のラグジュアリーについて考える(5):人間であることの豊かさ

伝統工芸品は、現在のラグジュアリー産業における意味でのラグジュアリーとは弊社では定義しませんが、生活を豊かにする贅なる品、逸品であることは確かかと思います。そして大量生産の時代からデジタル、そしてAIの時代へと移行する世界において、より世界は加速し効率が重視され、自然への畏怖や人間の価値さへも失われていくような時代になり、私たちの生活空間もよりあくせくした味気ないものになってきました。そんな中で、人間性そのものがラグジュアリーである世の中が来るのでしょうか。もしそうだとしたら、人間らしくあることこそ弊社が考える工芸のラグジュアリーかもしれません。

織物は人間の歴史につねによりそって発展してきました。自然を加工し、布で体を覆い、さらに自己を飾るようになって、数千年の時が流れています。幅広の繊維をシンプルに平織したものから、現在のジャガード機による精密な表現まで、まさに人間の探求心、美の希求、そんな人間を人間たらしめる能力の結晶と思います。

陶器はまさに自然との対話です。湿度、気温、火の温度、空気の流れ、光の強さ、そのほか様々な要因と偶然が重なって生まれる作品は、データやアルゴリズムによって生み出されるどんなに高度な知識とも同じ土俵にたつことのない、神秘性が備わっています。

これら伝統工芸が持つものを本物、authencity、という言葉で特別なものとして扱うことにも抵抗を覚えます。これまでのラグジュアリーの要素としてexclusiveな点が求められますが、私は伝統工芸はむしろinclusiveなものであり、またラグジュアリーもそう望むべき人々にはいつでも門戸を開くinclusiveなものであって欲しいです。ラグジュアリーは物質的なものではなく、心のあり方かもしれません。

 

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