日本のラグジュアリーについて考える(3): 伝統工芸のグローバル化における”日本らしさ”の扱い

日本のラグジュアリーについて考える(3): 伝統工芸のグローバル化における”日本らしさ”の扱い

伝統工芸もグローバルマーケットに進出していこうとする一方、日本の美はどうしてもグローバルなライフスタイルにおいて売り出しにくいと思います。日本らしいデザインのものを日本で購入してヨーロッパに帰ると、空間にマッチしないことが多く、使わなくなってしまうことが結構ありました。前述のように、デザインとしてはどうしても個性的でエモーショナルに訴える力は弱いのではないかとも思いますし、そのような表現の文化的違いは「日本的」ともいえるでしょう。

それを強みにしようというのが、「そぎ落とされた贅沢」というも美意識や、わび・さびに代表される独特な精神的・内面的な美意識や、細部へのこだわり、シンプルさ、余白の美、移ろいの美、なども含むのでしょうか。確かにこれらのイメージは日本文化として確立していますし、現在の現代美術との融和性も高く、戦略として素晴らしいと思います。

一方で、もっと浮世絵やアニメのように視覚的・感覚的なものもあります。大胆さ、奇抜な配色、一種独特な深淵性のなさも個人的には「日本の美意識」で、現在のところ、どちらかというとこちらのほうがグローバル市場ではより認知されているようにも思えますし、これらはラグジュアリーとは別の分野、あるいはアートに分類されるのではないかと思います。

伝統工芸の悩ましいところは、ラグジュアリーとアートの狭間のあいまいな位置にある、ということでしょうか。現在ラグジュアリーはアートを取り込んでいますが、工芸はどちらも属する、というよりどちらにも何かが不足する、という立場のような気がします。

そのため、日本らしさ、というものが語り口として使われるようになるのかもしれませんが、日本らしさもよくよく考えると多種多様であり、わび・さびはあくまで日本の一面であってすべてではない、というのは弊社の根本的な意識のなかにあります。そもそも、何が日本的であるか、というような強い自意識は、個人的には不思議なものに感じています。作品をはじめから日本の伝統工芸・日本の美ということばに押し込めてしまうのはマーケティングの上で、魅力的なのでしょうか。

弊社は日本の伝統工芸のお店、というよりは、作品の後ろにある人間性に焦点を当ててはどうか、と考えました。ますますアルゴリズムによって支配されていく世界において、私たちは手によって生み出された商品を扱っているのです。

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